ワーキングホリデー in オーストラリア  1993年9月〜1994年8月  

 1992年10月頃(当時19才)ディズニーランドで働いている時に、ワーキングホリデーの情報を入手。東京にいてはお金がたまらないと判断し、12月帰郷。春・夏とバイトし、資金を調達。オーストラリアの中で一番気候が安定しているブリスベーンに目的地を決め、1993年9月出発。
 空港の周りは街だとばかり思っていた私は空港の周りをトランク抱えて3時間程ぶらぶらしたが、元の場所に到着。ベンチでいっぷくしていたら、目の前にバスが・・・「街へ行きたいのか」らしきことを運転手さんが言ってきたので、とりあえず乗せてもらった。無事トランジットセンターに到着。運転手さんにバイバイしようとすると、運転手さんが勝手に荷物をセンターの建物の中に・・・。おいおいっと思いつつも後をついていくと、そこはバスの受付所。「ここでお金を払いなさい」みたいな事を言われ無賃乗車であることに気付く。トランジットセンターで訳のわからない中華バイキングを食べ、その後センターの受付でユースホステルの場所を聞く。でも・・・うまく伝わらない。1時間ほど四苦八苦し、なんとかバックパッカーを紹介してもらう。そしてなんとか生活が始まりました。

 英語が全くしゃべれないうえに、地球の歩き方すら持っていない。右も左もわからん状態が続き、毎日ブリスベーンのトランジットセンター付近をぶらぶらしてました。街からかなり外れたバックパッカーズでの生活が2週間続いたころ、やっと一人の日本人(まーさん)がバックパッカーズに現れました。彼はしばらくしたらブリスベーンの下にあるサーファーズパラダイスって街に行くって言うので、ご一緒させてもらいました。サーファーズに着いて1週間またバックパッカーズ生活。まーさんとはここでお別れでした。街に出ると小さなジャパンマートがあり、そこでシェアメイト募集との張り紙を見つけ連絡。下の写真の家にお世話になることになりました。

 Serfers Paradise に住んでいた時の家。プール付で居心地の良い家だった。駐車してある車は、最初のマイカー。ホンダアコード(1500ドルでシェアメイトから購入)日本じゃ絶対車検は通りませんなー。ほぼ毎日天気がよく、暇な日はいつもプールに浮いていました。あーもう一度この生活がしたい!

 ゴールドコーストHW沿いの街の並び。たまたまシェアメイトが働いていた店(オパールコレクション〈通称オパコレ〉)に行くことがあり、そのお店でブラブラしていたら店のオーナー(シシリア)にスカウトされて、そのまま働くことになってしまった。(サーファーズに着いた頃は日本語だらけの看板のこの街のお土産屋では働かんぞ!と思っていたが、英語もまだ上達せず、資金も底をついてきていたので、なんだかんだで結局働いたのでした。)でもココでの仕事はとてもおもしろく、いろいろ社会勉強にもなった。観光客の人も日本語の看板には違和感を持っていたようだけど、結局安心して買い物ができるところは日本人のいるところらしい。おかげで仕事は順調。かなり店の売上に貢献しているらしく、待遇はけっこう良かった。老若男女いっぱいのお客さんと話しも出来、なんとなく外からの日本を客観的に見ることができた。お店の向かいには、店のセキュリティー(ガードマン)がいて毎日くだらん話しをしていた。多少は英語の勉強になったかも・・・。そしてここで出会った仲間がいたおかげで俺の1年間の生活は最高のものになった。

 毎日仕事だったが、たまの休みにはパシフィックフェアーやオーストラリアンフェアー等郊外にある大きなショッピングセンターに行っていた。迷子になるくらいめちゃめちゃ大きいショッピングセンターで、あっという間に一日が過ぎます。たぶんここが一番サーファーズの観光にふさわしいかもしんない。その他にもここからさらに郊外に行ったところのカラーラにフリーマーケットがあり、ここも大好きだった。
 仕事が終わると夜遅くからでも毎日ビリヤードかカジノ(コンラッドジュピターズ)に行っていました。最後の2ヶ月間はほぼ毎日通ってました。たぶんカジノでのブラックジャックテーブルの会話が一番英会話の勉強になったと思う。ニューイヤーを迎えたのももちろんカジノです。

 サーファーズには @シーワールド Aムービーワールド Bドリームワールド Cフィッシャーマンズワーフ Dカランビン野鳥園などがある。その他にもアトラクションはないがとてもいい場所はかなりたくさんある。もう10年以上前のことなので、いろいろ変わっているだろうけど・・・。

 

【ワーホリから帰って来てから】
 日本に帰ってきて思ったことは、帰国後の生活がかなり不憫だったこと。オーストラリアにいる時よりもお金を使うことが多くなったということもあるが、またオーストラリアに行きたい気持ちが大きくなり、仕事もなかなかつく気になれず、気持ちだけが何か先行してしまって、地に足が着かなくなってしまっていたことだろう。正直オーストラリアでの1年間は自分の知らない世界を満喫できた充実した1年だった。それだけに、自分が成長した部分もあったんだろうけど、自分の成長以上に自分はもっと成長していると勘違いしてしまい、逆に自分自身を見失っていたと思う。
 でも、私のオーストラリアでの生活は自分の人生観を変えるすばらしい体験でした。「万歳オーストラリア。待ってろコンラッドジュピターズ。」

 

【その後】
 1995年3月にオーストラリアの相棒(けんちゃん)の結婚式があったので1ヶ月ほど卒業旅行目的の日本の友人と渡豪しました。
 1996年8月〜10月にはお金をためてカジノ勝負の片道切符の旅。
 1997年7月からニュージーランドにワーキングホリデーで約8ヶ月行きました。
 その時のそれぞれ空港での恥ずかしい話しがあるのですが、機会があればまたゆっくり書いていきます。

 

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